葛城山の神は本来土着の男神で、一言主の神のことです。当時の「神」観は、今日のように地上とかけ離れた存在ではなく、そもそも神社に祀られているのは土地の開拓創建者だったのです。それが後世の仏教興隆と、仏教を利用した大和朝廷の運営方針によって支配されてゆく過程で、まつろわぬ者たちは鬼とされたり、この「葛城」のような物語として伝承されてゆきました。
そう考えると「葛城」も、政治的な対立の話となってしまいますが、見方を変えると人間の原罪につながる深いテーマをも含んでいます。
即ち、岩橋(信仰の架け橋)を軽んずることによる、神との分裂(不死の喪失)です。
世界中には人間がなぜ不死を失ったかについて語る神話が沢山あります。その中で日本の「古事記神代上巻」に書かれたイワナガヒメの話は、能「葛城」と通じるテーマを含んでいると思えてなりません。
「イワナガヒメの話」 さてホノニニギノミコト(天皇家の先祖)は笠沙の岬で美しい乙女に出会った。そこで「おまえは誰の娘か」と尋ねたところ、答えて「オオヤマツミノカミ(土着の神のリーダー)の娘、名前はカミアタツヒメ、またの名はコノハナサクヤヒメといいます」と申した。 またニニギノミコトが「おまえには兄弟はいるか」と尋ねたところ答えて、「私の姉、イワナガヒメがいます」と申した。 そうしてニニギノミコトが「私はおまえと結婚しようと思う。どうか」と仰せられたところ、「私は申し上げられません。私の父、オオヤマツミノカミが申しましょう」と申した。
そこでその父のオオヤマツミノカミに求めて使いを遣ったところ、オオヤマツミノカミはおおいに喜んで、その姉イワナガヒメを添えて、たくさんの結納品を台に載せて持たせて、差し出した。 そうしたところ、その姉はたいへん醜かったので、ニニギノミコトは見て恐れて送り返し、ただその妹コノハナサクヤヒメだけをとどめて、一夜の交わりをもった。 これに対しオオヤマツミノカミは、イワナガヒメをかえしてきたため大いに恥ずかしく思い、申し送って、「わが娘を二人とも差し上げたわけは、イワナガヒメを召し使いなされば、天つ神である御子の命は、雪が降り風が吹いても、つねに岩のように、いつまでも堅く動かずいらっしゃるだろう。またコノハナサクヤヒメを召し使いなされば、木の花の咲くようにお栄えになるだろう」と、ウケイ(誓約)をして、差し上げたのです。
このようにイワナガヒメを帰らせて、ひとりコノハナサクヤヒメだけをとどめたために、天つ神である御子の御寿命は、桜の花のように短くあられるでしょう」と言った。このため、いまに至るまで天皇たちの寿命は長くないのである。
宗教学者、中沢新一は言います。
植物はエロスの象徴で、岩石は変化せざる永遠(または死)の象徴だと。 人間は一見して美しいもの(エロス)にひかれるが、それははかないもので、あっという間にタナトス(死)の手に渡され、呑み込まれていってしまう。 それならば最初からタナトスと手を結んでいればよいと思われるが、タナトスは恐るべきカオスの領域からやってくるので、なかなかそれと結婚して一体になるなどということが人間にはできないと。そして、その結果として永遠から分離されているのだと。 (人類最古の哲学 講談社選書メチエ)
「葛城」の神をがんじがらめにしている蔦葛はエロスの象徴、岩橋は永遠への架け橋。 そしてまた、エロスにからめとられた一つの人間原罪の岩として、彼女は永遠にそこに存在するのです。 但し、人間が罪を感じ続ける間だけ。 そう考えると、白色に潔斎した山の中で我々の罪を背負ってくれている彼女は聖なる守り神とも思えてくるのです。
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