西王母の伝承をたどる 西王母(せいおうぼ)‥その名が記憶に刻まれたのは何時のことだったか覚えていない。
いつの間にか。桃源郷に住む仙女。華麗なイメージとうらはらに、同時に妖怪めいたイメージが記憶に刻まれている。
鬼子母神や弁財天とのオーバーラップ。だいたい神話の神々というものは大陸における長い歴史のうちに、各地各時代の伝承がごちゃまぜになってしまっているのだから、これらをはっきりと分別するには結構な労力を要するだろう。
けれども気になる西王母。能の中でも「剣を腰に下げ」と表現される強さ・厳しさと、自分の記憶にある妖怪的なイメージの出所を探ってみたいと思った。
能の中の西王母
西王母の登場する能は2つある。タイトルロールの「西王母(せいおうぼ)」と「東方朔(とうぼうさく)」。いずれも皇帝を祝福する不老不死の桃の実を西王母が捧げに来る物語だが、「東方朔」では、皇帝に仕える方士(呪術師)である東方朔がその仲介をし、西王母と相舞をする。仙人・東方朔と仙女・西王母の関係も、創作され加えられていった伝承であるが、まずは能の時代設定を考えてみよう。
「西王母」の狂言口開によれば、官人の仕える皇帝は「周の穆王(しゅうのぼくおう)」である。
周の穆王といえば菊慈童の仕えた皇帝であった。慈童の眠りは700年。
目覚めたのは魏の文帝の時代。時に紀元200年代、邪馬台国卑弥呼の時代である。
つまりそれを遡ること約700年の昔。しかし穆王は西に赴き西王母に会った。
能「西王母」の物語は漢武帝(紀元前141~87)の頃の伝説にもとづいている。
そこで敢えて周の穆王との関係を公言しているのは、その伝承が広く知られた重要なものだったからだろう。
穆王と西王母
菊慈童がめざめた頃、紀元281年のこと。現在の河南省汲県古墳から竹札に書かれた書物が
大量に発掘された。その中に穆王の故事を記した書があり、西周の繁栄と西方との経済文化交流の話が記録されていた。「穆天子伝」「竹書紀年」がその書物である。
伝えられる物語は次のようなものだった。
(周の五代目の王・穆王は、紀元前1000年頃、約55年間王位にあって国力大いに繁栄、 最も盛時をきずきあげた帝王としてたたえられている。)
才能ある穆王は天下を周遊しようと考え、8頭の駿馬に曳かせる車を造らせ、人馬の一隊を従えて、周の都から渭水沿いに東へ向かって出発した。盟津まで来ると黄河を渡り、太行山脈の西のふもとを北に向かって突き進み、そのまま陰山のふもとに到達した。そこで針路を急に西に転じて長い道のりの旅に出た。途中黄河が門型に湾曲した地域(今の内蒙古自治区の南西部)をめぐって黄河の上流にさかのぼり、高くそびえる崑崙山に登った。さらに数千華里も西へ進み、ついに西王母という神女の国に到着した。
西王母は景色のもっとも美しい瑶池で盛大な宴会を催して、穆王一行をもてなした。杯をくみかわし、音楽がかなでられて歓迎のムードがあふれていた。穆王は西王母に中原特産と美しい錦織の絹製品などを大量に贈った。西王母も返礼としてその土地の宝物を贈った。さらに西王母は穆王を彼女の国の景勝の地に案内した。穆王は「西王母の山」としたためた書を贈り、記念の植樹までした。
別れの間際になると、ともに名残を惜しみ、西王母も再三酒をすすめて「君の長寿を祈り、
君の再び来るを願う」という歌を作った。穆王一行は往復三万五千華里の旅をして、中央アジアと西域の広大な地域の人民の深い友情を携えて帰国した。
「穆天子伝」「竹書紀年」によれば穆王は遠く天山東端にまで達したらしい。
現在の地図でみれば新疆ウィグル自治区ウルムチ市東方約70キロのところに天山山脈主峰ボゴダ峰がそびえ、その中腹に世にも美しい透明な青い水をたたえる湖が西王母の伝説の瑶池と伝えられている。
(参考・「能・中国物の舞台と歴史」中村八郎著 能楽書林)
Komentar