桜川は茨城県。
紀貫之が 常よりも春べになれば桜川 波の花こそ間なく寄すらめ
と詠んだ桜の名所だ。
足利義教の時代ひとつの花見物語を、この地の磯部大明神神主祐行が時の関東管領足利持氏に献上した。
持氏は世阿弥に命じ、この物語を能「桜川」に作らせたという。
花見物語の筋は桓武天皇5世の孫、九州相馬国司、平将平の一子桜児(さくらこ、男子)を主体とし、父の死後、7歳にして自ら奥州出羽の人商人に身を売り、奥州に下る途中、東国常陸の国桜川の源、磯部の宮に社参の砌、磯部寺の恵徳法師に買い取られ成人し後、母人乳母とも対面、目出度く父将平の跡を嗣ぎ、常陸、九州、相馬の国司となる、と云うことで纏められている。
能「桜川」は冒頭、人買いの男が母親に、桜子からの手紙を届ける。
「父の死後のお母様の絶望的な暮らしぶりを見るにつけ、心が痛みます。
私が身を売ったこの代金で生活も気持ちも立て直して出家なさいませ。お名残り惜しいことでございます」
母は驚くが人買いの姿は見つからない。
唯一心の支えだった我が子がいなくて、どうして生きていけよう。
母はあてもなく、泣く泣く我が子を求めてさまよい出る。
故郷は遠く、日向(宮崎)だった。能では三年が経過している。
母は故郷の氏神、コノハナサクヤ姫にちなんで名付けた「桜子」にゆかりの桜川(茨木)に到達し、美しい紅の掬い網で桜吹雪をすくい集めて謡い舞う名物女となっている。
桜が散るのは我が子が散るのも同じだと、流れる花を堰き止めてサクヤ姫に祈りをかける。
白楽天、古今和歌集、源氏物語…
あらゆる美文が引用されるが、その根底には徒なる契りがほのめかされている。
爛漫に散る白い桜吹雪に埋もれて彼女の持つ真っ赤な網は、血の契りの業を象徴するようだ。
クセの中で面白い言葉がある
「さるにても、名にのみ聞きてはるばると 思い渡りし桜川の
波かけて常陸帯の かごとばかりに散る花を 徒になさじと水を堰き・・・」
常陸帯(ひたちおび)とは、昔常陸国鹿島神社で行われた縁結びの帯占。
帯に意中の人の名を書いて神前に供え、神官がこれを結んで縁を定めた。
あづま路の 道の果てなる 常陸帯の かごとばかりも 逢ひ見てしがな
古今六帖 紀友則
常陸の帯占ほどの少ない可能性にかけてでも、ほんのすこしでも逢いたい
という和歌が引用されている。
ひたすらに美しく母の悲しみと愛慕が描かれ、その心象につれて桜川の桜は水面に映り、雲のように湧き立ち、しなやかに風に靡き、嵐に散り、波となって川を流れる。
節(メロデイー)もたいへん美しい。
この種の能の定型通り、花見に伴われて来た我が子とめでたく再会するが、そこは重要ではない。
この曲を、世阿弥はどのような事情で書いたのだろう。
世阿弥は足利義教によって佐渡に流された。
さんざんに迫害されそれまでの地位を親子とも奪われ、最愛の我が子元雅が不審死を遂げたその後に。
「桜川」を作らせたという持氏は、義教と対立しておりやがて失脚したという。
「風姿花伝」において世阿弥が提唱した美学は「老木の花」だった。
もう、倒れかけたような老木に、それでも花のある風情が最も高度な美意識だと言っていると思う。
それはまだ若く華やかなりしころの世阿弥の理想。
桜川の華やかさは、持氏という権力者に依存しながら誰もがこの地を称賛するに値する作品を創ったと言える。
しかしそこここに伺われる切実な祈りは、世阿弥の窮状が反映されていると
想像させるものでもある。
桜川には日本人のかつて見た、山桜の原風景があるという一本一本すべて異なる桜の木。
日々複雑に味わいの変わる花の色。
世阿弥もみたかもしれないその風景をみればもう少し「桜川」がわかるだろうか。
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